短い雑記

名乗るほどのものではないオッサンの短い雑記です。含蓄のある事、書けと言えば書けますよ。生存確認用ブログです。

旭川プチハウス シズリングビーナス美味し

秋の日曜日、昨日のラグビーワールドカップから一夜あけ、飲み過ぎたせいで頭が痛いが、午前中は静かに本を読んではうたた寝し、また本を読んで、うたた寝し、のどの調子が悪くなった。左ののどの奥というか、気管支の入り口あたりが痛痒いような違和感がついた。やべー。

昼は妻と地元の「プチハウス」という老夫婦経営の洋食屋さんでいつものを食べた。

シズリングビーナス。歯ごたえのある牛のサガリだ。

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肉でも食って元気になろうってわけで、来月からはこれを店で食べると消費税10%で、出前なら8%。外食と出前を分ける考え方がおかしいんだ、ごらぁ!

まあ、そんなこと言っても来月からそうなるんだから仕方ない。公明党のヴぁか!

そんなわけで、午前中せっかく読んだ本から、名文があったので、忘れないように書き写し、今日の放送はこれで終了いたします。

読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う。人は誰しも孤独だし、人は独りでは生きていけない。矛盾してるけれど、どちらも本当である。書物というのは、この矛盾がそのまま形になったメディアだと思う。読書という行為は孤独を強いるけれども、独りではなしえない。本を開いた瞬間から、そこには送り手と受け手がいて、最後のページまで双方の共同作業が続いていくからである。本は与えられても、読書は与えられない。読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。自分で本を選び、ページを開き、文字を追って頭の中に世界を構築し、その世界に対する評価を自分で決めなければならない。それは、群れることに慣れた頭には少々つらい。

しかし、読書が素晴らしいのはそこから先だ。独りで本と向き合い、自分が何者か考え始めた時から、読者は世界と繋がることができる。孤独であるということは、誰とでも出会えるということなのだ。

引用:恩田陸「小説以外」 

 これね、名文だと思ったんですよ。

それでわざわざ、書いたんですが、どう感じます?

じゃ、また。

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